『個性』を認めるか否かの本質を問う。
『人生の自由研究』へようこそ。
ここ数日、急に暑くなったり寒くなったりで体が怠い状態です。
季節の変わり目は気温も、人の変化も大きく感じますね。
さて、今朝妻とこんな会話をしていました。
一緒に活動しているグループで、『電子書籍』を作ろうと考えているという話でした。
『不登校』を題材に書こうと考えているらしく、参考になる本を探しに行ったらしいのです。
確かに不登校を題材にした本はいっぱいあったらしいのですが、妻の話では不登校を ”直そうとする” 本が大半を占めており、不登校を ”個性” として認めて伸ばしていく様な本は数える程しかなかったらしいのです。
自分は妻に話しました。
「不登校って世間から見たら ”道を外れた子” なのよね。日本はその ”道から外れた子” を何とかみんなと同じ道に引き戻そうとするじゃない。
もしくは『手のかかる子』『変わり者』『異端児』みたいな感じで扱われて、むしろ普通のクラスから排除しようとするじゃない。
たしかに不登校がなくなれば、それはそれで良いことだと思うよ。でも、多くなる傾向にあると言うことは何か原因があると思うんだよね。
ここ最近は、原因は ”二の次” みたいな感じがするよね。
もはやそれが日本の常識となりつつあるような気がするんだよね。だから、当然書籍もそういう本が多いんだと思うよ。」
更に自分はこう続けました。
「今の子たちは、既に ”個性” すら押し殺して生活しているらしいよ。例えば学校で何かを皆で決めようとするじゃない。その時、自分たちの意見を出し合うのが普通じゃない。
でも、意見はほとんど言わないらしいよ。最初っから投票制にするらしいんだ。しかも何人かで口裏合わせて投票するらしいね。
要は ”波風立てるのが面倒くさい” らしいのよ。何事もなく日々生活したい子が多いみたいだね。
まあ、これも一部で聞いた話だから分からないけど、今の状況を見るとあながち嘘ばかりでもないと思っちゃうよね。」
妻はこの話を聞いて、少しうなずいていました。
自分は思うのです。
『個性を出し合うのは、お互いを認め合うから出来ること』
だと・・・。
既に小さい子供の時から『個性』を押し殺して生活している様であれば、相手の『個性』すらも、認めて尊重しあうことは難しくなってしまうのではないか・・・。
そんな ”危機感” が頭をよぎったのです。
そういえば、いつか見たこんな光景を思い出しました。
家族で入ったカフェで、一組のカップルがお互いのスマホをうつむいて見ている様を・・・。
そのカップルは、一言も言葉を交わすことなくその場を後にしました。
その光景を見て当時は衝撃を受けましたが、それも今や普通になってしまった様ですね・・・。
もう一つ思い出しました。
何かの本に ”お金持ちになる条件” の一つとしてこんなのがありました。
『妻と30分以上話す時間がある』
うん。うちは条件を満たしている様です。
これも実は、『個性を出し合うのは、お互いを認め合うから出来ること』ではないかと思ったりもするのです。
お互いの意見を出し惜しみすることなく話す・・・。
今の日本には必要なことだと感じるのですが・・・ね。
では、また (=゚ω゚)ノ
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